(上の写真は昭和11年4月13日の羽黒)
起工 1925年3月16日
進水 1928年3月24日
就役 1929年4月25日
その後 1945年5月16日戦没
除籍 1945年6月20日
性能諸元
排水量 13,963トン
全長 203.76m、水線長:201.63m、垂線間長:192.48m
全幅 19.0m、水線幅:17.86m
吃水 10.97m、平均:6.23m
機関 ロ号艦本式重油専燃缶12基、艦本式高低圧タービン4組、130,000shp、重油搭載量:2,470t
最大速 35.6ノット
航続距離 7,000浬(14ノット時)
乗員 773名
兵装 50口径3年式2号20cm(20.3cm)連装砲 5基
40口径89式12.7cm連装高角砲 4基
保式13mm4連装機銃 2基
留式7.7mm機銃単装 2基
92式4連装魚雷発射管 2基(使用魚雷 90式61cm16本)
航空機 水偵:4機、射出機:呉式2号5型2基
一等巡洋艦。妙高型1万トン重巡4隻中の4番艦として、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて建造され1929年(昭和4年)4月25日に竣工し、同日付で佐世保を本籍と定められた。
なお、羽黒は艦内の調度品や塗装、通風設備を同時期に長崎造船所で建造されていた客船浅間丸を参考にしたものとされ、イギリス海軍の影響が強かった艦内艤装を日本式に改めたものとなった。
就役後は第二艦隊第四戦隊に所属。その後1931年(昭和6年)に排煙の問題から煙突を延長する工事を行い、1934年(昭和9年)5月から1935年(昭和10年)10月には第一次改装を、1938年(昭和14年)1月から同年12月にかけては第二次改装を行い高角砲や機銃、魚雷発射管といった兵装の換装や増設、艦橋構造の改正、航空設備の拡充や船体へのバルジ装着などを行った。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時には第二艦隊第五戦隊に所属し、フィリピン攻略に参加する。
確か……開戦の少し前だったかな?>
そうらしいよ。
(解説によると昭和16年3月上旬らしい。
艦首から艦橋構造物を見上げた写真)
1942年(昭和17年)にはスラバヤ沖海戦でイギリス巡洋艦エクセターに直撃弾を与え、その後も珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦など数々の海戦に参加した。
これは……
スラバヤ沖海戦の
直前ですね
そうみたいだね。
(解説によると、この海戦は、砲身は焼け、ペンキは焼け落ちるというほど激しいものだった、とある)
1943年(昭和18年)11月、アメリカ軍が上陸したブーゲンビル島近海の輸送船団を攻撃するため羽黒、妙高で編成された第五戦隊は水雷戦隊を率いてラバウルを出撃したが、ブーゲンビル島沖でアメリカ艦隊と交戦(ブーゲンビル島沖海戦)、羽黒も被弾した。
(上写真は1943年のラバウル空襲下の羽黒)
トラック島空襲直前の1944年(昭和19年)2月10日に第五戦隊の羽黒、妙高、第四戦隊と第十七駆逐隊はトラックを離れ、2月13日にパラオに到着。羽黒は3月9日にバリックパパンに向けて出港し、3月12日に到着。次いでタラカンに向かい、それから3月22日にパラオに戻った。
パラオ大空襲直前の3月29日にパラオを脱出し、ダバオを経由して4月9日にリンガ泊地に着いた。
5月11未明、リンガ泊地の日本艦隊は出港しタウィタウィへ向かった。
第五戦隊は一日遅れで出港し、15日にタウィタウィに着いた。
5月27日、アメリカ軍がビアクに来攻。
それを受けて29日に渾作戦が発令され、羽黒は警戒隊として作戦に参加した。
5月30日にタウィタウィを出発し、31日にダバオに入港。
6月2日にダバオを出撃し、陸軍部隊を乗せた輸送隊を護衛してビアクへ向かったが、3日に敵機に接触されたため作戦は一時中止となり、警戒隊はダバオに戻った。
9日、ハルマヘラ島バチャン泊地に進出。
12日には渾作戦に投入されることになった戦艦大和、武蔵などもバチャン泊地に到着したが、アメリカ軍のサイパンへの襲来により作戦中止となり、渾作戦部隊は13日にバチャン泊地を出港して16日に機動部隊と合流し、マリアナ沖海戦に参加した。
マリアナ沖海戦後は機動部隊と共に日本本土に帰還、その後妙高と共にシンガポール方面に移動、リンガ泊地での訓練を経て1944年(昭和19年)10月にはレイテ沖海戦に参加、10月25日のサマール沖海戦ではアメリカ護衛空母の艦載機によって2番砲塔に爆弾を受け損傷した。
その後は南西方面艦隊の指揮下に入り、レイテ沖海戦後シンガポールに係留されていた妙高や高雄と共にシンガポールに待機していたが、羽黒の損傷は妙高や高雄と比較して軽度であったので、南西方面艦隊に編入されていた足柄などと同様に輸送作戦に従事することとなった。
1945年(昭和20年)5月12日、陸軍の要請により、アンダマン諸島への輸送任務に駆逐艦「神風」とともに出撃。(ペナン沖海戦)
1945年(昭和20年)5月16日、イギリス海軍機の攻撃を受け損傷する。
翌17日マラッカ海峡にてイギリス駆逐艦「ソマーズ」「ヴィーナス」「ヴィラーゴ」「ヴェルラム」「ヴィジラアント」と交戦する。(ペナン沖海戦)。
イギリス駆逐艦に主砲の命中弾を与えて先制するが英駆逐艦の雷撃を受けた。羽黒は損傷のために速度を制限せざる得ない状況であり、戦場からの離脱を断念。随伴する神風を離脱させた。
15日正午過ぎに敵哨戒機に接触される。午後1時30分には敵艦隊出現の情報電も入手した。このため一時退避することとしてペナンの方向に向首。
16日午前零時10分、間もなくマラッカ海峡に入ろうとする時、敵(英国)駆逐隊と至近距離で遭遇、直ちに左砲戦。
主砲の二斉射目が敵の1番艦に命中して、これを轟沈。2番艦に目標を変えようとした時、前部砲塔下に魚雷を受けた。
速力が急速に落ち、艦は左に30度傾斜。
敵弾は絶え間なく命中し、機械室にも魚雷が命中して航行不能となる。
敵駆逐艦3隻は停止中の羽黒の周囲を廻りながら砲火を浴びせた。
ついに前甲板は海中に没し、左に大きく傾斜。
総員退去が令せられたが乗員は勇を振るって最後まで射撃を続けていた。
羽黒には最終的に3本の魚雷が命中し、5月16日午前3時25分(02:32?)、ペナン沖合ムカ岬の南西48浬の地点で船首部分から沈没した。
同乗していた橋本信太郎中将、艦長杉浦嘉十大佐以下400名あまりが戦没した。320名が引き返してきた神風に救助された。
その後60年近くを経て、2003年(平成15年)に「羽黒」の船体はダイバーによって海面下66mで発見された。船体は海底に甲板側を上にして着底しているが、船体上部の損傷は大きく、艦橋やマスト、煙突に破壊の跡が確認できる。
平成17年3月ペナン沖水深64メートルの海底から引き揚げられた羽黒の艦橋左舷舷窓枠が慰霊碑正面に装着されている。
轟沈のとき言った言葉……そういうことだったんだね……
……はい、わたしはもう駄目かも知れなかったんですけど、
……まだ無事な神風さんには、……生き残ってほしかったんです
なるほどねぇ……
……でも、もう轟沈させないから。がんばろう!
はい、がんばります!>
戦歴について調べていると、以下のものがヒットした。
実際の体験談で、とても興味深い。
参考:Wikipedia、写真|日本の軍艦 第5巻