2013年7月26日金曜日

重巡洋艦、利根について

こんにちは。
今回は、艦船紹介の第二弾、重巡洋艦「利根」についてのお話です。








まず始めに、性能緒元。
排水量
基準:11,213トン 公試:13,320トン
全長 201.6m全幅 19.4m
吃水 6.23m (公試)
機関 ロ号艦本式缶8基
艦本式タービン4基4軸
152,189馬力 (公試成績)
最大速 35.55ノット (公試成績)航続距離:18ノットで9,240海里(公試成績)
燃料 2,700トン(実測値)
乗員 874名
兵装
(竣工時)
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm連装機銃6基12挺
13mm連装機銃2基4挺
61cm3連装魚雷発射管4基12門

(1945年)
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm三連装機銃14基42挺
25mm連装機銃2基4挺
25mm単装機銃21挺
(機銃は推定)
61cm3連装魚雷発射管4基12門
装甲 舷側:145mm 甲板:35mm
搭載機 水上機6機 (カタパルト2基)

○主砲
・20.3cm連装砲4基を装備
 この砲は50口径三年式二号20cm砲と呼ばれていましたが、秘匿のために公式図上では九八式15.5cm砲と仮称されていました。
・主砲塔は全て前部に集中配置
1番と2番砲塔を背負式に、3番と4番砲塔は後方に向けて1番砲塔と同一の高さに配置しています。
3番と4番砲塔を後方に向けたのは、後方射界をできる限り確保するのと、弾火薬庫の防御重量を節約するためだと言われています。

○高角砲
・40口径八九式12.7cm連装高角砲4基を中央部両舷に2基ずつ装備
最初の計画では最上型と同数の4基とされましたが、航空巡洋艦に変更した際、後部の中心線上に1基増設して5基となりました。
しかし最終的には再び4基に変更されました。

○魚雷兵装
・九〇式3連装発射管4基
これは最上型と同じものです。航空甲板付近の上甲板両舷に2基ずつ装備されていました。

○航空兵装
・後部は全て航空兵装へ
 これには、主砲発砲時の爆風で搭載機が破壊されるのを防ぐのと、砲戦中でも搭載機の射出が可能という2つの利点がありました。
航空甲板は、後檣後方の最上甲板と後方の一段低い上甲板とにわかれ、両甲板は中心線上で傾斜した運搬軌条で結ばれていました。両甲板を同一の高さとしなかったのは、重心点の上昇を防ぐためでしたが、搭載機の運搬移動には問題があったと言われています。
・最上甲板の両舷に射出機が1基ずつ装備され、搭載機は射出機後方に2機を搭載し、上甲板には4機を搭載
・搭載機は連続射出を考慮して格納庫を設けず、全て露天繋止
搭載機数は計画では九五式水偵4機、九四式水偵2機の計6機を定数としていたが、実際の定数は九五式水偵3機、九四式水偵2機の計5機とされていました。射出機上の搭載機が故障した場合の交換作業や、露天繋止による整備上の不利を考慮して余裕を持たせたからだと言われています。
なお、筑摩が完成後に行なった実験では、九四式水偵4機、九五式水偵4機の計8機の搭載が可能なことが確認されています。

○防御
・砲塔を集中配置したことで防御を効率よく施すことができました。
具体的には、
弾火薬庫舷側部:145~55mmのテーパード・アーマー
水平部:56mmの甲鈑を装着
機関部舷側:100~65mmのテーパード・アーマー
水平部:31mm
傾斜部:65mm
の甲鈑を装着
・水中防御
 縦隔壁(DS甲鈑)
  機械室:45mm
  缶室:34mm
であり、日本の重巡では最も重防御です。(高雄さんや愛宕さんよりもおおきいよ!)

重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は、利根は当初最上型重巡洋艦5番艦として計画さされたためです(最上型は始め軽巡洋艦として設計されていました)。後に再設計により重巡洋艦(書類上は二等巡洋艦)となったものの、艦名はそのまま使用されました。
最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として起工されました。諸外国に通知した時の数値は、基準排水量8,636トン、水線全長187.21mでしたが、友鶴事件や第四艦隊事件の教訓によって計画を変更、20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦として就役しました。

この後の伊吹型重巡洋艦「伊吹」が未完成に終わったため、「利根」と「筑摩」は日本海軍が完成させた最後の重巡洋艦となりました。


戰歴

○開戦前
利根は、三菱重工業長崎造船所にて建造され、竣工後は姉妹艦「筑摩」と共に第八戦隊を編成し第二艦隊に所属していました。しかし、後に偵察能力を買われ第一航空艦隊に編入されます。搭載する偵察機は、空母の攻撃隊に先立って目的地を偵察する役割がありました。
利根と姉妹艦「筑摩」は第八戦隊を編成し、当初横須賀鎮守府、続いて1939年10月には舞鶴鎮守府を母港としました。
1940年9月17日、呉を出撃して21日、海南島三亜港に到着します。この翌日、IC作戦が発動されます。

艦隊:「利根」「鳥海」第二航空戦隊(空母:「蒼龍」「飛龍」)、第一駆逐隊、第四駆逐隊、舞鶴第一特別陸戦隊、「神川丸」

この艦隊をもって、北部仏印進駐を支援します。このとき、「利根」は船団護衛、上空哨戒任務に従事しました。この任務が「利根」と「筑摩」最初の作戦行動です。
この後、9月29日に帰還命令を受け、任務を終えた「利根」は日本に戻ります。

1940年10月11日の紀元二千六百年記念行事では、姉妹艦「筑摩」と共に戦艦「長門」以下連合艦隊主力艦が一同に会した観艦式に参加しました。
この年の12月、航空機定数が三座水偵(零式水上偵察機)1機、二座水偵(九五式水上偵察機)3機に変更されます。そして1941年9月1日よりドック入りして補修点検を行いました。
その後9月22日に舞鶴を出港し、9月26日、宿毛湾に入ります。水偵隊は遠距離索敵や夜間緩降下爆撃の訓練に従事しました。
10月25日、第八戦隊(利根、筑摩)は第一特別行動部隊に編入されます。ここから、第一航空艦隊と行動を共にすることになります。
11月3日、有明湾に艦が集合します。司令官や艦長は南雲忠一中将が座乗する旗艦・空母「赤城」で頻繁に打ち合わせをおこなっていたそうです。
11月10-13日、呉軍港で燃料補給、弾薬補給を行い、搭乗員は太平洋全域の地図を受け取ります。その後11月14日、呉を出港して佐伯湾に入港。17日には戦艦「長門」の艦上で山本五十六連合艦隊司令長官が機動部隊幹部将校を前に指示を行っています。
18日、佐伯湾を出港。外洋航海中の11月20日午前10時、全乗組員が第一種軍装を着用して上甲板に整列する中、艦長は南雲機動部隊がハワイと米軍太平洋艦隊を奇襲する真珠湾攻撃を行うことを告げました。翌日、単冠湾に入港。ここで乗組員はタラバガニを釣って英気を養います。
11月26日、「利根」は「南雲機動部隊」の1艦として太平洋に出撃しました。

○太平洋戦争緒戦

真珠湾攻撃

第一航空艦隊 司令長官:南雲忠一中将、参謀長:草鹿龍之介少将
  第一航空戦隊 南雲長官直率
    空母:赤城、加賀
  第二航空戦隊 - 司令官:山口多聞少将
    空母:蒼龍、飛龍
  第五航空戦隊 - 司令官:原忠一少将
    空母:瑞鶴、翔鶴
    
艦載航空機399機(零式艦上戦闘機120機、九九式艦上爆撃機135機、九七式艦上攻撃機144機)

第三戦隊 - 司令官:三川軍一中将
    戦艦:比叡、霧島
第八戦隊
    重巡洋艦:利根、筑摩
第一水雷戦隊 - 司令官:大森仙太郎少将、
    軽巡洋艦:阿武隈
  第一七駆逐隊 - 駆逐艦:谷風、浦風、浜風、磯風
第一八駆逐隊
    駆逐艦:陽炎、不知火、秋雲、霞、霰
第二潜水隊 - 司令:今和泉喜次郎大佐
    潜水艦:伊19、伊21、伊23
第一補給隊 - 司令:大藤正直大佐
    油槽船:極東丸、健洋丸、国洋丸、神国丸
第二補給隊
    油槽船:東邦丸、東栄丸、日本丸
特殊潜航艇5隻(甲標的5隻)- 指揮官:佐々木半九大佐

日本時間1941年12月8日午前1時、利根1号機(零式水上偵察機)が発進し、淵田美津雄総飛行隊長率いる空襲部隊より一足先に真珠湾へ向かいました。このとき姉妹艦「筑摩」からも索敵機が発進しており、利根機と筑摩機は第一次攻撃隊より1時間前にハワイ上空に潜入し気象や湾内の状況を報告していました。
午前1時30分、空母6隻より攻撃隊183機が発進します。午前2時、利根2号機が所在不明の米空母を捜索し、午前5時30分に帰投しました。このとき利根1号機は、戦艦「霧島」のマストを超える飛沫があがるほど荒れた海への着水に失敗し、転覆して失われてしまいました。
「利根」は日本への帰路につきましたが、ウェーク島では島を守る少数の米軍海兵隊によって上陸作戦を決行した日本軍第四艦隊(第六水雷戦隊)が撃退されます。
これにより南雲機動部隊に支援命令が下されました。「利根」と「筑摩」は第二航空戦隊(空母:「蒼龍」「飛龍」)、駆逐艦「谷風」、「浦風」と共にウェーク島へ向かいます。
12月21日から始まったウェーク島第二次攻略作戦では、「利根」と「筑摩」の水偵が周辺索敵と対潜哨戒のため発進します。この作戦の際、日本軍は島に航空機地下格納庫があると推測し、陸戦隊により完全占領するしかないと考えていました。
23日、日本軍はウェーク島の占領に成功し、任務を終えた「利根」は12月29日、呉に入港します。

1942年1月9日、「利根」は南太平洋における日本軍の作戦拠点を獲得すべく、南雲機動部隊(赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴)に随伴して日本を出撃します。
1月23日、「利根」の水上偵察機部隊がブーゲンビル島北方のブカ島を爆撃します。高橋の著作では「零式水偵1機、九五水偵3機」となっていますが、戦闘詳報では「三座水偵2機、二座水偵1機」となっており、はっきりしていません。
1月24-25日には、第八戦隊(「利根」「筑摩」)と軽巡洋艦「阿武隈」が南雲機動部隊より分離し、水偵隊がアドミラルティ諸島を爆撃。「利根」はビスマルク諸島攻略の終了によって、1月27日トラック泊地に戻りました。
2月1日、マーシャル諸島に空母2隻を含む米軍機動部隊出現の報告を受けて出撃しましたが会敵せず。南雲機動部隊は南洋艦隊に編入されて蘭印作戦の支援へ向かいます。
2月8日、パラオ泊地に到着し、第四戦隊(重巡洋艦:「愛宕」 、「高雄」、「摩耶」、「鳥海」)、第三航空戦隊(「鳳翔」、「瑞鳳」)と合流します。
2月19日、南雲機動部隊によるポート・ダーウィン空襲を支援します。この空襲中に利根2号機が特設巡洋艦「ヘクター」を発見して日本軍攻撃隊を誘導、撃沈に貢献しました。
3月1日、「利根」は駆逐艦「エドサル」(USS Edsall, DD-219)を姉妹艦「筑摩」、戦艦「比叡」、「霧島」と共に追跡しますが、「軽快艦艇に対する射撃は遠距離に於いては命中率不良にして意外に多量の弾丸を消費す」と述べるように、なかなか米国駆逐艦を撃沈できませんでした。このため、日本空母から九九式艦上爆撃機が発進、これにより爆撃で航行不能になった「エドサル」に砲撃で止めを刺すことに成功しました。
3月3日、「利根」水偵搭乗員の高橋によれば、「利根」は商船を発見し、砲撃で撃沈とされていますが、戦闘詳報には記録はありません。

4月、英軍東洋艦隊の進出にともなってセイロン沖海戦が発生します。このとき、南雲機動部隊は大きな戦果を挙げました。
4月5日午後1時、「利根」から発進した九四式水上偵察機がイギリスの重巡洋艦「ドーセットシャー」、「コンウォール」を発見。しかし九四水偵は燃料不足のため触接を断念します。
午後2時55分、零式水上偵察機(利根1号機)が英軍重巡洋艦を再発見し、艦爆隊を誘導します。2隻は攻撃開始からわずか17分で沈没したと言われています。
4月9日、南雲機動部隊は英軍空母「ハーミーズ」を撃沈するなどの戦果を挙げました。
しかし、このとき「利根」と空母「赤城」はウェリントン爆撃機(戦闘詳報や著作によってはブリストル ブレニム)の奇襲を受けています。
「利根」は南方作戦の終了にともなって日本本土へ歸還しました。

○米軍機動部隊との激戦



(↑ミッドウェー作戦発動により柱島を出撃せんとする利根。)

1942年6月、「利根」はミッドウェー海戦に参加しました。
しかし、このときカタパルトが故障。偵察機の発進が30分(10分との説も)遅れ日本海軍敗北の一因となったとされていました。
しかし後の研究で定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われています。

ミッドウェー海戰

第一航空艦隊(第一機動部隊) 司令長官:南雲忠一中将
第一航空戦隊 司令官:南雲忠一中将
    航空母艦:赤城(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻21)
            加賀(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻30)
第二航空戦隊 司令官:山口多聞少将
    航空母艦:飛龍(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻21)
            蒼龍(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻21)
第八戦隊 司令官:阿部弘毅少将
    重巡洋艦:利根、筑摩
第三戦隊第二小隊
    戦艦:榛名、霧島
第十戦隊 司令官:木村進少将
    軽巡洋艦:長良
  第四駆逐隊 司令:有賀幸作大佐
    駆逐艦:嵐、野分、萩風、舞風

この海戦で、利根航空搭乗員2名も戦死しました。

ミッドウェー海戦後、アリューシャン作戦を支援します。その後ソロモン諸島方面で第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に参加しました。

第二次ソロモン海戰

第3艦隊

南雲忠一中将、阿部弘毅少将
  空母
    第1航空戦隊:翔鶴、瑞鶴
  戦艦
    第11戦隊:比叡、霧島
  重巡洋艦
    第8戦隊:筑摩
    第7戦隊:鈴谷、熊野
  軽巡洋艦
    第10戦隊:長良
  駆逐艦
    第10駆逐隊:秋雲、夕雲、巻雲、風雲
    第16駆逐隊:初風
    第19駆逐隊:浦波、敷波、綾波
    第34駆逐隊:秋風 支隊

原忠一少将
  空母
    第2航空戦隊:龍驤
  重巡洋艦
    8戦隊利根
  駆逐艦
    第16駆逐隊:時津風、天津風

1943年、利根はトラックを基地としてマーシャル諸島やカロリン諸島で活動します。
10月16日、機関室タービンに故障が見つかり4、第八戦隊旗艦を「筑摩」に移します。トラック泊地で応急修理をおこなったものの、10月28日に再調査したところ別の機械にも破損を発見されます。これによって前線での修理は不可能と判断され、第十一水雷戦隊指揮のもと、10月31日に日本・呉工廠へ向け出発しました。このとき、伊勢、山城、隼鷹、雲鷹、龍田、第二四駆逐隊(海風、涼風)、谷風、第七駆逐隊(曙)が利根と艦隊を組みます。
11月6日、呉に到着し、修理は12月14日に完了しました。

そして1944年6月、マリアナ沖海戦に参加します。

マリアナ沖海戰

第二艦隊
司令長官:栗田健男中将、参謀長:小柳富次少将
旗艦:重巡洋艦:愛宕
  前衛部隊 第一戦隊(宇垣纒中将)
    戦艦:大和、武蔵
  第三戦隊(鈴木義尾中将)
    戦艦:金剛、榛名
  第三航空戦隊(大林末雄少将)
    小型空母:瑞鳳、千歳、千代田
  第四戦隊(栗田中将直率)
    重巡:愛宕、高雄、鳥海、摩耶
  第七戦隊(白石萬隆少将)
    重巡:熊野、鈴谷、利根、筑摩


10月には捷一号作戦に参加します。
そして10月22日ブルネイを出港、レイテ沖へ向かいます。

レイテ沖海戰

第一遊撃部隊第二部隊
  第三戦隊:司令官:鈴木義尾中将
    戦艦:金剛、榛名
  第七戦隊:司令官:白石萬隆中将
    重巡洋艦:鈴谷(10/25 没 サマール沖)、熊野、利根、筑摩(10/25 没 サマール沖)
  第十戦隊:司令官:木村進少将
    軽巡洋艦:矢矧
  第十七駆逐隊:司令:谷井保大佐
    駆逐艦:浦風、磯風、雪風、浜風、清霜、野分(10/26 没)

第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)
第二戦隊:司令官:西村祥治中将、戦艦 山城(10/25 没 スリガオ)、扶桑(10/25 没 スリガオ) 重巡洋艦 最上(10/25 没 スリガオ)
第四駆逐隊:司令:高橋亀四郎大佐、駆逐艦 山雲(10/25 没 スリガオ)、満潮(10/25 没 スリガオ)、朝雲(10/25 没 スリガオ)
第二十七駆逐隊:艦長:西野繁少佐、駆逐艦 時雨



(シブヤン海海空戦にて。奥が「利根」。手前は戦艦「武藏」)


24日、シブヤン海海戦で空襲により命中弾を受けます。しかし翌日サマール沖海戦に参加し、408発の主砲弾を発射、うち7発を敵艦に命中さます。

レイテ沖海戦後、舞鶴に帰還して損傷箇所の修理と機銃の増設を行い、呉に回航されます。
その後1945年3月19日、海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中米第58任務部隊による空襲を受けて損傷します。このあと、海軍兵学校と江田島湾を挟んでちょうど対岸にあたる能美島の海岸付近に移動しました。

7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け損傷(呉軍港空襲)。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により爆弾6発を被弾してしまします。
 
 
 
 
 
 
 
(空襲下の利根。主砲は仰角を上げて対空戦闘を行っている)
この後、対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努めたものの、その甲斐も無く翌日になって大破着底、終戦を迎えました。


(大破・着底した利根↑→)


そして戦後まもなく調査と引き上げが行われ、鉄不足解消のために1948年までにスクラップとなりました。







現在、能美島(江田島湾)の利根の着底した場所付近に慰霊碑が建てられており、慰霊碑に隣接して、「軍艦利根資料館」があります。ここには、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されています。

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調べてみての感想は、とにかく「写真が少ない」。
筑摩はそこそこ出てくるのですが、利根は大破着底したものがほとんど。
お蔭で文字ばかりになってしまいました。読みにくくなってしまって申し訳ないです。





<我輩の活躍、見てもらえたかの?




うん。また軍艦利根資料館行ってみたいなって思った。





<艦これでも我輩に水偵を搭載してもらえれば、艦隊の眼として
<縦横無尽に活躍するのじゃ!



偵察も戰鬪もいつもお世話になってます。




ではでは~♪

4 件のコメント:

  1. はおヾ('ヮ'*)ノ

    じっくり讀んでいるから氣づいちゃうので一言...

    途中のサマール沖で、という寫眞。
    これは10月24日のシブヤン海海空戰のものじゃないですか?
    10月25日のサマール沖海戰には武藏はすでに戰没して參加してないですから。

    逆にサマール沖でのものだとしたら、利根はほかの七戰隊の鈴谷、熊野、筑摩、五戰隊の羽黑、鳥海とともに米空母群に接近砲撃、大和からはかなり距離が離れていましたのでちょっと違うのかなと...

    利根さんの「おぬし、なかなかにヒマじゃろ」と言われてフヒヒサーセンとなっちゃうくろちゃんでしたヽ(´ー`)ノ

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  2. ご指摘ありがとうございます。
    何分知識不足なもので、写真の名前に「Samar」とあったのでそれを鵜呑みにしてしまいました。
    これからもこのしがないブログをどうぞよろしくお願いします。

    そして、もっと皆さんがコメントしてくださることを祈っています。
    (コメントがないと寂しいなんて言えない……)

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  3. 空母が来るまで偵察機を発射しても未発見か未帰還ばかり
    だったんですが何なんですかねこれは(震え声)

    最近某所に人が来ず筋トレやらバイク教習が捗ってるので艦これ放置しがちですが
    資材が貯まるのでそれを使っての戦艦の建造が捗る捗る。
    そのうち実装されるだろう大和級とアイオワ級のみで編成された漢仕様の艦隊を作りたいですw
    大きいことはいい事なのです(^p^)

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  4. 重巡メインでも4-4いけるんですね!
    自分と全然違う編成なんで読んでて楽しいです。
    是非これからも重巡愛で頑張ってくださいネ!

    ちなみに装備開発はどんなレシピでやってるんですかね?
    よかったらおしえてくださいっ!

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